5話




  武雄との婚約。
 そう言い渡されてから、茉莉の心はどこかに置きざりにしてしまったようだった。
 体だけは、高野の家に戻っていて、食事も入浴もすませていたらしい。
 巨大な姿見の前で立っている自分の姿を見ている時に、やっと自分を取り戻した気分になったくらいだった。
 バスローブを羽織った茉莉はゆったりとしたしぐざで、それを床に落とす。
 バサリ。と床の絨毯に落ちたバスローブが外れると、他はなにもつけていない見事な裸体が、鏡の中に映し出された。
 抜けるように白い肌。
 色素の薄い茶色の瞳。少し高めの鼻梁。ピンク色の形のいい唇は、肉感的でふっくらとした顎へとつづく。
 髪は染める必要なんてない。元から栗色だった。波打つくせ毛のおかげで、自然なカールを形作っている。
 細い首にまろやかな肩。大きく実った胸部。
 胸のおかげで細い腰が、なお強調されているのも、わかる。
 腰のくびれは柔らかな臀部へと続き、髪の色と同じ色彩の恥毛は量が少なく控え目で、うっすら秘部が透けて見えていた。
 割れ目から続く太ももは程よく肉がつき、ほっそりとした長い脚線美は、茉莉の自慢でもあった。
 茉莉の祖父か祖母に、白人の血が流れている人がいたかもしれない。
『クウォーター?』なんて、茉莉はよく質問された。
 日本人離れした容姿に、東洋人独特の線の細さが加わって、絶妙な美しさを醸し出していた。
「いよいよこの身を、立てる時がきたんだわ・・・。」
 つぶやく声は、とても低い。
 その瞳も、まるでこれから戦場に行くかのような、悲壮感ただよう炎が灯っていた。
(そのため、私はあんな努力をしたんだから!)
 心の中で叫ぶ。
 高野の本家で過ごした日々・・・。
 家中のぞうきんがけを言い渡され、初めて出来たアカギレは、あっという間に掌全体に広がった。痛む手でぞうきんを絞る茉莉を、助ける者は誰もいなかった。
 祖母が目を光らせていたからだ。
 高野の娘としてのプライドは、8才にして粉々に砕かれて、ペシャンコにされた。
 辛い毎日を送りながらも、茉莉はそれでも歯を食いしばって耐えた。
 ここで自殺なんかしたら、祖母の思うツボだと思ったからだ。
 女中と共に草むしりをし、床を磨き、汚物で汚れたトイレを洗う。食事はもちろん食堂で食すことなんて許されなかった。従業員の控えの間で慌ただしく食べた後は、家人の分の後片付けも手伝った。
 古参の者ばかりで揃えられた口の堅い従業員達は、その事を決して漏らさなかった。
 体面もあったのだろう。表立っては親族がそろう公の場所では、祖母は露ほど毎日のしごきの片鱗さえみせなかった。
 おかげで、出生の秘密は外には漏れなかったおかげもあったが・・。
 仕事を黙々とこなして2.3年ほど経った頃、言いつけられる雑事が少なくなってくる。
 代わりに、祖母の身の回りの世話をする仕事が増えていった。
 格式高い彼女の世話は、古参の女中の中でも特によく気が付く女性と、暗黙の了解があったのに、茉莉が抜擢されたのが、意外なくらいだった。
 気難しがり屋の祖母の側で、緊張のあまり失敗ばかり繰り返す茉莉を支えてくれたのは、女中頭の多岐だった。
 彼女の庇護の元で、少しずつでも仕事を覚え、日々も暮らせてゆけたようなものだった。
 そんなある日。
 茉莉は女中の制服を返却するよう言われる。
 洗い替えの分もすべて、丁寧に折りたたんで、高野の本家で初めて多岐に用意された私服に腕を通した。
 祖母の部屋に入って、頭を下げた茉莉に、言い渡された言葉は、
「今日から、お前には本格的な淑女になるための、教育を受けてもらいます。」
 だった。
 妙に丁寧な言い回しに、身の毛もよだったのを、今でも鮮明に覚えている。
 言われた意味が、とっさに分からなかったくらいだった。
「主君たる者は、家を支えてくれる者・・ひいては会社を支えてくれる者達の姿を、忘れてはなりません。」
 彼等の努力があって、家は保たれるのです。
「屋敷内で働く従業員たちの姿を、身をもって味わったでしょう?」
 祖母の言いたい事は、頭では理解できた。